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普段はあまり模型の出来に言及しないのですが、今回のTOMIXのC58は素晴らしい走行性能ですので最初に言及しておきます。とにかくスロー走行が安定していて、線路の状態で電流の強弱が少なからず一定でない当鉄道でも、ずっと一定の低速で走り続けてくれます。これまで買ったプラ製Nゲージの蒸気機関車の中でも出色の出来です。撮影も非常にやり易かったです。
C58形蒸気機関車は、国鉄の前身である鉄道省、運輸通信省、運輸省が導入した蒸気機関車です。
ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車で、8620形の速度と9600形の牽引力を兼ね備えた共通の後継機として設計され、1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)にかけて、431両(国鉄向け427両(樺太庁鉄道向け14両含む)、天塩鉄道・三井芦別鉄道向け各2両)が製造されました。愛称はシゴハチです。
国鉄のテンダー式蒸気機関車では唯一の2-6-2(1C1。プレーリー)型車軸配置を採用しています。設計主任は細川泉一郎で、島秀雄は課長の立場で担当しています。形態的には、煙室上部の煙突前に装備された給水暖め装置など、D51形量産型に似ている箇所があります。
国鉄の蒸気機関車としては、初めて密閉型の運転室が採用され、床部後方に延長して炭水車に接する部分に扉を設けています。一番動揺の激しい炭水車との接続部が床になったことで、機関助士の労働環境は大きく改善されましたが、温暖な九州では扉を外して使用したものもありました。
また、ボイラ設計としては18kg/cm2に耐えうるものでしたが、大戦勃発により付属品の高圧化が据え置かれたため、16kg/cm2となっています。
太平洋戦争の戦況悪化により、戦前・戦中の製造は1943年(昭和18年)発注分で中止され、D51形などのような木製デフレクター(除煙板)やカマボコ型のドームを装備したいわゆる戦時型は製造されず、戦後は1946年(昭和21年)から製造が再開されました。
戦後製造分(C58 383以降)は、ボイラー径の拡大(1,364mm → 1,396mm)、炭水車を6-17型(石炭6t・水17t)から10-20型(石炭10t・水20t)型に拡大、無台枠の船底型に変更、台車の変更(軸ばね形プレート式 → まくらばね形鋳鋼製)とするなどの設計変更が行われました。
運用は戦前から各地のローカル線や都市部の入換用として使用されました。戦後の新造が落ち着いた1948年7月1日には、本形式は388両が在籍していました。鉄道局別の配置は、札幌36両、仙台75両、東京60両、名古屋43両、大阪72両、広島51両、四国32両、門司19両でした。
その後動力近代化計画の推進により計画的な廃車がされるようになり、1970年4月1日時点では234両となっていましたが、新たな配置区として、鷲別区に2両、五稜郭区に8両、八戸線用に尻内区へ10両、二俣線用に遠江二俣区に9両、長野区へ入換用として2両、亀山区へ草津線・関西本線用として4両、山陰本線東部用として福知山区に3両、豊岡区に5両、西舞鶴区に2両、津山線用として津山区へ14両、九州では志布志線用として同線管理所へ3両が移っています。
本形式は定期特急の先頭に立つことはありませんでしたが、北海道では急行「大雪」の編成そのままの北見~網走間の普通列車を牽引しました。
臨時の運用としては陸羽東線で、奥羽本線の不通に伴って迂回運行した特急「あけぼの」、急行「津軽」、「おが」などの牽引に当たったことがあります。20系寝台列車を前部補機付きの重連で牽引しました。優等列車牽引はこの程度でした。この「あけぼの」牽引は1973年4月12日に最後の事例が発生しています。
またお召し列車牽引にも何度も抜擢されたことがあり、安定した扱いやすい機関車であったことはここからも読み取れます。
急行「大雪」の直接的な前身は、1945(昭和20)年11月20日から運転を開始した倶知安、小樽経由の函館〜旭川間の急行1・2列車です。しかしこの区間では戦前から優等列車が運転されており、1934(昭和9)年12月1日改正で登場した函館〜札幌間急行3・4列車がそのルーツと言えます。この列車は1939(昭和14)年11月15日改正で網走まで延長されました(旭川〜網走間は普通列車)が、戦時体制が濃くなった1942(昭和17)年11月15日改正で廃止されました。
戦後、北海道の急行として真っ先に復活した1・2列車は、終戦後の不安定な輸送事情で廃止、復活を繰り返し、1947(昭和22)年6月29日に急行7・8列車としてようやく定着しました。翌年7月1日に実施されたダイヤ改正では列車番号が1・2列車に戻されました。さらに12月15日からは上野〜青森間急行201・202列車の1等寝台車マイネ40が青函航路を介してこの列車に連結されました。
戦後初めての大規模なダイヤ改正となった1949(昭和24)年9月15日、急行1・2列車は網走まで延長され、1列車の函館→札幌間のスジが夜行から昼行に改められました。その当時のダイヤは、1列車/函館6時10分→網走23時08分、2列車/網走5時10分→函館22時47分で、旭川〜網走間は普通列車として運転されました。そして1951(昭和26)年4月1日、この列車に晴れて「大雪」という名がつけられました。
1956( 昭和31)年11月19日改正では、東海道本線が全線電化されたことにより、これまで東京〜大阪間の特急「つばめ」「はと」を牽引してきたC62が小築港機関区に転入、翌年2月から「大雪」の函館〜小樽間を間を牽引するようになりました。これはC62が北海道内で優等列車を牽引した最初のケースで、長万部〜小樽間の重連牽引もこのときから始まりました。
1961( 昭和36)年10月1日に実施されたダイヤ改正は、80系気動車により全国的な特急網が築かれた画期的な改正で、北海道にも初めての特急「おおぞら」が函館〜旭川間に登場しました。これにより「大雪」は北海道内の優等列車の王座を「おおぞら」に明け渡した形になりましたが、「おおぞら」が室蘭本線・千歳線経由となったため、倶知安、小樽経由のいわゆる「山線」を経由する「大雪」は、運転区間が函館〜札幌間に縮小されたものの、まだ存在価値が残されていました。特急が運転開始したとはいえ、まだまだ輸送力は小さく、「大雪」は、「おおぞら」の補完列車として重宝されていました。
一方、1961(昭和36)年には北海道にキハ58型気動車グループの北海道向け車としてキハ56等が登場し、4月から札幌〜函館間の「すずらん」や札幌〜釧路間の「狩勝」に投入。同年10月1日改正で登場した、函館〜網走、釧路、稚内間の「オホーツク」「摩周」「宗谷」にも投入され、北海道内急行の気動車化が推進されました。その中で「大雪」も1963(昭和38)年6月1日改正で気動車化されその名を「ライラック」と改めました。
気動車化を機に「大雪」は、札幌〜網走間の気動車急行となりました。これは改正前の「第1・2はまなす」を改称したもので、以後、気動車「大雪」は札幌〜網走間を基幹系統とし、1968(昭和43)年10月1日改正では、石北本線系統の急行が昼・夜行を問わず、すべて「大雪」に改称されることになりました。
1972(昭和47)年10月2日改正では、札幌〜網走間に特急「オホーツク」が誕生しました。この列車は、以後、「大雪」を駆逐する存在となり、1985(昭和60)年3月14日改正では、札幌〜網走間で1往復残っていた昼行「大雪」が廃止となりました。一方石北本線ローカルの方はしぶとく残り、キハ22、キハ40、キハ53といった車両を使い細々と単行で運転されていましたが、1986(昭和61)年11月1日改正で廃止されました。 この時点で「大雪」として残ったのは夜行1往復のみでした。夜行「大雪」は1970(昭和45)年10月1日改正で函館〜札幌間の普通列車区間が分離されて札幌〜網走間の運転となり、昭和40年代末期まで普通列車となる北見〜網走間(いわゆる大雪崩れ)でC58が牽引していたことから、蒸気機関車がスロ54やオロネ10などの優等客車を牽引する最後の列車として知られていました。また、A寝台とB寝台の合造車である珍車・オロハネ10が最後まで連結されていた列車としても有名でした。 そんな夜行「大雪」が一般型客車により運転されていたのは1982(昭和57)年11月15日改正までで、この改正からは座席車のみが14系に置き換えられました。寝台車は翌年7月20日に置き換えられ、オール14系化が完了しました。
夜行「大雪」はJR移行後もしばらく存続しましたが、1992(平成4)年3月14日改正では、ついに特急に格上げされ、183系特急型気動車に置き換えられました。また列車名は「オホーツク9・10号」と改称され、ついに伝統の「大雪」の名が消滅しました。
その後、2017(平成29)年3月4日のダイヤ改正で、「オホーツク」4往復のうち、2往復を旭川~網走間に短縮した際に再び「大雪」の愛称が起用されることとなり、現在に至っています。